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Produced by Masaki Shibata

Title: 法螺男爵旅土産 (Horadanshaku tabimiyage)
Author: 佐々木邦 (Sasaki Kuni)
Language: Japanese

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka. (This file was produced from images generously made available by Kindai Digital Library)

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佐々木 邦譯述

法螺男爵旅土產

東京 内外出版協會

法螺《ほら》男爵《だんしやく》旅《たび》土產《みやげ》
    佐々木邦譯

暴風《ばうふう》と胡瓜《きうり》の樹《き》の話《はなし》

拙生《せつせい》の髯《ひげ》が丁年《ていねん》到逹《たうたつ》の宣言《せんげん》をする以前《まへ》、もつと碎《くだ》いて申《まを》せば、最早《もはや》子供《こども》でもなく、さりとて未《いま》だ大人《おとな》でもない頃《ころ》、拙生《せつせい》は世界《せかい》觀光《くわんくわう》の渇望《かつばう》を口癖《くちくせ》のやうに洩《も》らしてゐた。ところが待《ま》てば海路《かいろ》の日和《ひより》とやらで、父《ちゝ》はセイロン島《たう》への航海《かうかい》に拙生《せつせい》の隨伴《おとも》を御許可《おゆるし》になつた。セイロン島《たう》には父《ちゝ》の叔父《をぢ》に當《あた》る人《ひと》が、知事《ちじ》として最早《もう》長《なが》い事《こと》居《ゐ》る。 我等《われら》はホルランド王室《わうしつ》の國書《こくしよ》を奉戴《ほうたい》してアムスターダムに纜《ともづな》を解《と》いた。此《この》航海《かうかい》中《ちゆう》一寸《ちよつと》記載《きさい》の價値《ねうち》あるのは暴風《ばうふう》の起《おこ》つた事《こと》である。それが尋常《じんじやう》一|様《やう》の暴風《ばうふう》でなく、我等《われら》が薪水《しんすゐ》を取込《とりこ》みに碇泊《ていはく》してゐた島《しま》の、高樹《かうじゆ》大木《たいぼく》を根拔《ねこぎ》きにした。啻《たゞ》に根拔《ねこぎ》にしたばかりでない。其中《そのうち》には何噸《なんとん》といふ重量《おもい》のがあつたけれど、其《それ》が風《かぜ》に攫《さら》はれて、果《は》ては宛然《まるで》空中《くうちゆう》に漂《たゞよ》ふ小鳥《ことり》の羽毛《はね》のやうに見《み》えた。少《すくな》くとも海拔《かいばつ》五|哩《まいる》の所《ところ》に逹《たつ》したのであらう。そして暴風《ばうふう》が止《や》むか、止《や》まないに、其木《そのき》が夫《そ》れ〴〵舊《もと》の所《ところ》に垂直《すゐちよく》に落《お》ちて再《ふたゝ》び根《ね》を張《は》るには拙生《せつせい》も一|驚《きやう》を喫《きつ》した。しかし一|番《ばん》大《おほき》い奴《やつ》は空中《くうちゆう》に吹上《ふきあ》げられた時《とき》、其枝《そのえだ》に木訥《ぼくとつ》な百姓《ひやくしやう》の老夫婦《らうふうふ》が乗合《のりあは》せてゐた。乗合《のりあは》せてゐたといふと馬車《ばしや》か何《なん》ぞのやうだが、實《じつ》は胡瓜《きうり》を把《と》つてゐたのである。世界《せかい》も此《この》地方《へん》になると日用《にちよう》の靑物《あをもの》は皆《みな》木《き》に實《な》つてゐる。さて此《この》夫婦《ふうふ》の體量《めかた》が幹《みき》の衡平《かうへい》を失《うしな》はせたから、大木《たいぼく》は平《ひら》たく地上《ちじやう》に落《お》ちて、折《をり》から通合《とほりあは》せた島《しま》の首領《しゆりやう》を即座《そくざ》に壓殺《おしころ》して了《しま》つた。首領《しゆりやう》は大木《たいぼく》が屋根《やね》に落《お》ちて、家《いへ》ぐるみ潰《つぶ》されてはならぬと思《おも》ひ、少時《しばらく》戶外《こぐわい》を徘徊《はいくわい》して、大分《だいぶ》木《き》も降《ふ》り止《や》むだからと、今《いま》し庭園《ていゑん》を通《とほ》つての歸途《かへりみち》に運好《うんよ》く腦天《なうてん》を打《う》たれたのである。此《この》運好《うんよ》くといふ文字《もんじ》は聊《いさゝ》か說明《せつめい》を要《えう》する。といふのは此《この》首領《しゆりやう》といふのは島《しま》一|體《たい》の鼻摘《はなつま》みで、獨身者《ひとりもの》であつたが、其《その》一人《ひとり》の貪慾《どんよく》と壓制《あつせい》の爲《た》めに良民《りやうみん》は殆《ほと》んど食《く》ふや食《く》はずの憂《う》き目《め》を見《み》てゐたのである。 此《この》惡漢《しれもの》の捥取《もぎと》つた財貨《たから》は空《むな》しく倉《くら》の中《なか》で唸《うな》つてゐるのに、奪《うば》はれた貧乏人《びんばふにん》は飢寒《きかん》に泣《な》くといふ有樣《ありさま》であつた。此《この》暴君《ばうくん》の沒落《ぼつらく》は全《まつた》く偶然《ぐうぜん》であつたが、縱令《たとひ》怪我《あやまち》の功名《こうみやう》にもせよ、兎《と》に角《かく》壓制者《あつせいしや》を退治《たいぢ》してくれたのだからと、人民《じんみん》は感恩《かんおん》の表示《しるし》に胡瓜《きうり》取《とり》夫婦《ふうふ》を戴《いたゞ》いて知事《ちじ》にした。 我等《われら》は此《この》暴風中《ばうふうちゆう》に被《かうむ》つた破損《はそん》を修繕《しゆぜん》して、新《しん》知事《ちじ》及《および》令夫人《れいふじん》に別《わかれ》を吿《つ》げ、目的地《もくてきち》に向《むか》つて順風《じゆんぷう》に帆《ほ》を揚《あ》げた。 それから約《やく》六|週間《しうかん》にして我等《われら》はセイロン島《たう》に着《つ》き、其處《そこ》で鄭重《ていちよう》な歡迎《くわんげい》を受《う》けた。次《つぎ》の珍奇《ちんき》な冒險《ばうけん》は多少《たせう》興味《きようみ》を惹《ひ》くであらう。

獅子《しゝ》と鰐《わに》の話《はなし》

セイロン島《たう》に滯在《たいざい》する事《こと》二|週間《しうかん》ばかりの後《のち》、或日《あるひ》拙生《せつせい》は知事《ちじ》の弟《おとうと》に連《つ》れられて、鐵砲打《てつぱううち》に出《で》かけた。 巨大《おほき》な湖《みづうみ》が拙生《せつせい》の注目《ちうもく》を惹《ひ》いた。其《その》岸《きし》近《ちか》く來《く》ると、何《なに》か背後《うしろ》にガサ〳〵する音《おと》が聞《きこ》えたと思《おも》つて、振返《ふりかへ》つて見《み》ると、拙生《せつせい》は殆《ほと》んど石化《せきくわ》して了《しま》つた。蓋《けだ》し此《この》場合《ばあひ》恐《おそ》らくは石化《せきくわ》せぬ人《ひと》はなからうと思《おも》ふ。と申《まを》すは一|疋《ぴき》の獅子《しゝ》が目《め》に付《つ》いたのである。明白《あきらか》に當方《たうはう》を目差《めざ》して、拙生《せつせい》の蚊《か》の脛《すね》のやうな體軀《からだ》を以《もつ》て食慾《しよくよく》を滿《み》たさうとして進《すゝ》むでまゐる。それも當方《たうはう》の承諾《しようだく》を求《もと》めずに遂行《すゐかう》しようといふのだから、恐《おそ》れ入《い》らざるを得《え》ない。此《この》進退維谷《ヂレンムマ》に際《さい》して如何《いか》に處决《しよけつ》す可《べ》きか?拙生《せつせい》は全然《まつたく》考慮《かうりよ》の餘地《よち》がなかつた。拙生《せつせい》の鐵砲《てつぱう》には白鳥彈《はくてうだま》が込《こ》めてあるばかり、其《それ》より大《おほき》い彈丸《たま》は生憎《あいにく》にも何《なん》にも持合《もちあは》せがない。しかし白鳥彈《はくてうだま》で此《この》動物《どうぶつ》を殪《たふ》し得《え》ようとは思《おも》はなかつたが、兎《と》に角《かく》砲聲《おと》で驚《おどろ》かせ、尙《な》ほ多少《たせう》怪我《けが》をさせてやれる位《くらゐ》の見込《みこみ》はあつたから、先方《せんぱう》が然《しか》る可《べ》き距離《きより》に來《く》るのも待《ま》たず、拙生《せつせい》は火葢《ひぶた》を切《き》つて了《しま》つた。砲聲《おと》は却《かへ》つて動物《どうぶつ》の憤怒《いかり》を增《ま》した。彼《かれ》は今《いま》や急《きふ》に步《あし》を早《はや》めた。全速力《ぜんそくりよく》で近寄《ちかよ》つて來《く》るやうに見《み》えた。拙生《せつせい》は逃《に》げようと思《おも》つたが、其《それ》は却《かへ》つて心痛《しんつう》を增《ま》したに過《す》ぎぬ。といふのは振返《ふりかへ》り樣《さま》、拙生《せつせい》は拙生《せつせい》を呑込《のみこ》むために大口《おほぐち》を開《あ》いた鰐《わに》と危《あや》うく鉢合《はちあは》せをする所《ところ》であつた。前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り右手《みぎて》は湖水《こすゐ》である。左手《ひだりて》は絕壁《きりぎし》である。落《お》ちれば下《した》は猛獸《まうじう》の巢窟《さうくつ》だと後《あと》から聞《き》いて承知《しようち》した。短言《たんげん》すれば、獅子《しゝ》は最早《もはや》後脚《あとあし》で立上《たちあが》り、今《いま》にも掴蒐《つかみかゝ》りさうにしてゐるから、最早《もはや》生命《いのち》は無《な》いものと觀念《くわんねん》して、拙生《せつせい》は恐懼《きようく》の餘《あま》り、無意識的《むいしきてき》に其《その》場《ば》に平伏《つツぷ》した。後《あと》から察《さつ》するに、獅子《しゝ》は直《たゞ》ちに飛蒐《とびかゝ》つたに相違《さうゐ》ない。拙生《せつせい》は姑《しばら》くの間《あひだ》言語《げんご》に述《の》べがたき心情《こゝろもち》で刻々《こく〳〵》猛獸《まうじう》の牙《きば》か爪《つめ》が身體《からだ》の何處《どこ》にか當《あた》るだらうと待《ま》つてゐた。數秒《すうべう》の間《あひだ》尙《な》ほ腹這《はらばひ》のまゝ待《ま》つと、熱烈《ねつれつ》且《か》つ異樣《いやう》な叫音《さけび》を聞《き》いた。曾《かつ》て拙生《せつせい》の耳《みゝ》を煩《わづら》はした音響《おんきやう》の中《うち》に、之《これ》に似寄《によ》つたものは一つもない、と其《その》時《とき》は恐《おそ》ろしくて無我《むが》夢中《むちゆう》だつたが、後《あと》から然《さ》う思《おも》つた。しかし事情《じじやう》を見《み》れば、其《それ》も道理《だうり》で、聲《こゑ》の出所《でどころ》が分《わか》れば、諸君《しよくん》も夫《そ》れ然《しか》り豈《あに》夫《そ》れ然《しか》らざらんやと合點《がつてん》の行《ゆ》く事《こと》であらうと存《ぞん》ずる。拙生《せつせい》は尙《な》ほ少々《せう〳〵》聞耳《きゝみゝ》を立《た》てゝ、死《し》ぬか生《い》きるかと頭《あたま》を擡《もちあ》げて、周圍《あたり》を見廻《みまは》すと、獅子《しゝ》は拙生《せつせい》に飛付《とびつ》く方《はう》に氣《き》を取《と》られた餘勢《よせい》で、拙生《せつせい》が倒《たふ》れた刹那《せつな》、既《すで》に申《まを》した通《とほ》り廣《ひろ》く開《あ》いた鰐《わに》の口《くち》に飛込《とびこ》むだのである。前者《ぜんしや》の頭《かしら》は後者《こうしや》の喉《のど》に嵌《はま》り、此《これ》は其《それ》を吐出《はきだ》さう、彼《かれ》は其《それ》を拔取《ぬきと》らうで、轉々《てん〳〵》悶々《もん〳〵》してゐる。之《これ》を見《み》た拙生《せつせい》の歡喜《よろこび》は寔《まこと》に何《なん》に例《たと》へやうもなかつた。運好《うんよ》く拙生《せつせい》は腰《こし》に付《つ》けた獵刀《れふたう》を思出《おもひだ》して、名刀《めいたう》の難有《ありがた》さ、唯《たゞ》一擊《ひとうち》で獅子《しゝ》の頭《くび》を落《おと》した。血《ち》が颯《さつ》と迸《ほとばし》つて、首《くび》のない死骸《しがい》が、足元《あしもと》に蹣跚《ぐたり》と倒《たふ》れた時《とき》の心地《こゝろもち》の惡《わる》さ!次《つぎ》に拙生《せつせい》は獵銃《れふじう》の臺尻《だいじり》で、獅子《しゝ》の頭《あたま》を鰐《わに》の喉《のど》に突込《つきこ》み突込《つきこ》み、到頭《たうとう》窒息《ちつそく》させて鰐《わに》も殺《ころ》して了《しま》つた。彼《かれ》は呑下《のみくだ》す事《こと》も出來《でき》ず、吐《は》き出《だ》す事《こと》も叶《かな》はなかつたのである。 斯《か》くして拙生《せつせい》が二|强敵《きやうてき》を平《たひら》げると間《ま》もなく、同伴《つれ》の男《をとこ》が拙生《せつせい》を探《さが》しに來《き》た。拙生《せつせい》が彼《かれ》の後《あと》を追《お》はぬに心付《こゝろづ》いて、さては道《みち》を踏違《ふみちが》へたか、それとも何《なに》か變事《まちがひ》が起《おこ》つたかと、早速《さつそく》引返《ひきかへ》して來《き》たとの事《こと》。 お互《たがひ》に成功《せいこう》を祝《しゆく》した後《のち》、拙生《せつせい》は鰐《わに》の身長《たけ》を量《はか》つて見《み》たら、丁度《きつかり》四十|尺《しやく》あつた。

深雪《みゆき》と高塔《かうたふ》の話《はなし》

拙生《せつせい》は冬《ふゆ》の最中《さなか》にロシヤの旅《たび》を思立《おもひた》つた。旅人《たびゞと》は口《くち》を揃《そろ》へて、ドイツ北部《ほくぶ》ポーランド、コーアランド、リボニヤ等《など》の道路《だうろ》險惡《けんあく》を言《い》ふが、拙生《せつせい》は嚴寒《げんかん》なれば雪《ゆき》と氷《こほり》で却《かへ》つて道《みち》が容易《らく》だらうと考《かんが》へたのである。拙生《せつせい》は馬《うま》で出掛《でか》けた。これが最《さい》簡便《かんべん》の旅行《りよこう》法《はふ》だと思《おも》つたので。其《その》中《うち》に夜陰《やいん》と暗黑《あんこく》が追着《おひつ》いた。村《むら》は一個《ひとつ》も見《み》えぬ。地《ち》は一|面《めん》に雪《ゆき》が降積《ふりつ》むでゐる。拙生《せつせい》は道《みち》は全《まつた》く不案内《ふあんない》である。 拙生《せつせい》は草臥《くたび》れて馬《うま》から下《お》りて、雪《ゆき》の上《うへ》に現《あら》はれてゐた尖《とが》つた木《き》の幹《みき》のやうなものに馬《うま》を繋《つな》いだ。護身《ごしん》の爲《た》めにピストルを腕《うで》の下《した》に置《お》いて一|睡《すゐ》を貪《むさぼ》つた。能《よ》く眠《ねむ》つたものと見《み》えて、覺《さ》めた時《とき》には最早《もはや》日《ひ》が昇《のぼ》つてゐた。しかし氣《き》が付《つ》いて見《み》ると、拙生《せつせい》は村《むら》の中央《まんなか》の敎會堂《けうくわいだう》の墓地《ぼち》に寢《ね》てゐる。是《これ》には何《なん》とも言《い》ひやうなく喫驚《びつくり》した。そして尙《な》ほ拙生《せつせい》の馬《うま》が見《み》えぬ。間《ま》もなく何處《どこ》か上《うへ》の方《はう》で、奴《やつ》の嘶《いなゝ》く聲《こゑ》がした。思《おも》はず見上《みあ》げると、更《さら》に仰天《ぎやうてん》した事《こと》には、會堂《くわいだう》の高塔《かうたふ》の上《うへ》の風見《かざみ》に拙生《せつせい》の馬《うま》が手綱《たづな》で繋《つな》いである。事態《じたい》は直《たゞ》ちに闡明《せんめい》した。所謂《いはゆる》大陸《たいりく》氣候《きこう》の激變《げきへん》で、雪《ゆき》が解《と》けるに從《したが》つて、拙生《せつせい》は熟睡《じゆくすゐ》の儘《まゝ》徐々《じり〳〵》と此《この》會堂《くわいだう》の墓地《ぼち》まで下《お》りて來《き》たのである。昨夜《さくや》暗黑《くらやみ》紛《まぎ》れに木《き》の幹《みき》と見《み》て馬《うま》を繋《つな》いだのは實《じつ》は會堂《くわいだう》の高塔《かうたふ》の風見《かざみ》であつた。 斯《か》う次第《しだい》が分《わか》れば面倒《めんだう》も何《なに》もない。拙生《せつせい》は直樣《すぐさま》ピストルを取出《とりだ》して、狙《ねら》ひ定《さだ》めて引金《ひきがね》を引《ひ》き、美事《みごと》手綱《たづな》を二つに絕《た》ち、恙《つゝが》なく馬《うま》を下《おろ》して時《とき》を移《うつ》さず旅《たび》を續《つゞ》けた。(流石《さすが》の男爵《だんしやく》も此處《こゝ》では大《おほ》手稃《てぬかり》をしてゐる。長《なが》い間《あひだ》馬《うま》を餓《う》えさせたのだから、飼葉《かひば》を命《めい》じた位《くらゐ》の事《こと》は言《い》つて置《お》く筈《はず》だと思《おも》ふ。)

馬具《ばぐ》に入《はい》つた狼《おほかみ》

馬《うま》は拙生《せつせい》を乗《の》せて能《よ》く走《はし》る。ロシヤ内地《ないち》に入《はい》つてから拙生《せつせい》は騎馬《きば》旅行《りよかう》は何《ど》うやら冬季《とうき》の流行《りうかう》でないと合點《がてん》した。そこで常例《じやうれい》に從《したが》つて其《その》國《くに》の習慣《しふくわん》を採用《さいよう》し、單《たん》馬橇《ばそり》を求《もと》め、ペテスブルヒを目《め》がけて韋駄天《ゐだてん》驅《が》りに進《すゝ》むだ。イーストランドであつたか、ヂャゲマンランドであつたか、精《くは》しくは思出《おもひだ》せないが、兎《と》に角《かく》寂《さび》しい森《もり》の唯《たゞ》中《なか》だつたと記憶《きおく》する。拙生《せつせい》は恐《おそ》ろしい狼《おほかみ》の嚴冬《げんとう》の餓《うゑ》に驅《か》られて、全速力《ぜんそくりよく》で追《お》つて來《く》るのに氣《き》がついた。と思《おも》ふ間《ま》に狼《おほかみ》は追着《おひつ》いたから、到底《たうてい》遁《のが》れる術《すべ》はない。拙生《せつせい》は唯《たゞ》機械的《きかいてき》に橇《そり》の中《なか》に平伏《へいふく》して、無上《むしやう》に馬《うま》を走《はし》らせた。ところが間《ま》もなく拙生《せつせい》の願《ねが》つた事《こと》で、而《しか》も此際《このさい》到底《とても》出來《でき》ない相談《さうだん》だと諦《あきら》めてゐた一|事《じ》が起《おこ》つた。と申《まを》すは、狼《おほかみ》は拙生《せつせい》には毫《すこし》も目《め》を吳《く》れず、頭《あたま》の上《うへ》を跳越《はねこ》して、狂亂《きやうらん》のやうに馬《うま》の尻《しり》に獅嚙付《しがみつ》き、直《たゞ》ちに憐《あは》れむ可《べ》き動物《どうぶつ》の臀部《でんぶ》を搔毟《かきむし》つて肉《にく》を貪《むさぼ》り始《はじ》めた。拙生《せつせい》は自分《じぶん》丈《だ》けは安全《あんぜん》、最早《もはや》見《み》つかる氣遣《きづかひ》なしと、窃《ひそか》に頭《あたま》を擡《もた》げて樣子《やうす》を覗《うかが》つたが、既《すで》に狼《おほかみ》が馬《うま》の腹部《ふくぶ》まで喰込《くひこ》むでゐるのには何《なん》とも名狀《めいじやう》し難《がた》い恐《おそ》ろしい心持《こゝろもち》がした。頭《あたま》の方《はう》まで喰貫《くひつらぬ》いたのは其《それ》から良《やゝ》少時《しばらく》の事《こと》で、時分《じぶん》は好《よ》しと拙生《せつせい》は鞭《むち》の柄《え》で懸命《けんめい》に狼《おほかみ》を突《つ》いた。此《この》思《おもひ》がけない背面《はいめん》攻擊《こうげき》に狼《おほかみ》は膽《きも》を潰《つぶ》して馬《うま》の死骸《しがい》を筒拔《つゝぬ》け、到頭《たうとう》馬具《ばぐ》の中《なか》に四合《しつくり》篏《はま》つて了《しま》つた。同時《どうじ》に馬《うま》は摚乎《ばたり》と倒《たふ》れる。さあ拙生《せつせい》は必死《ひつし》になつて鞭《むち》を揮《ふる》ひ、打《う》つわ〳〵。竟《つひ》に拙生《せつせい》と狼《おほかみ》は期《き》せずして恙《つゝが》なくベテスブルヒに乗込《のりこ》むだ。や、都人士《とじんし》の驚《おどろ》いたの驚《おどろ》かないのつて!

野豚《のぶた》と猪《ゐのしゝ》の話《はなし》

僥倖《げうかう》は屢《しばし》ば人間《にんげん》の錯誤《まちがひ》を正《たゞ》す。之《これ》に就《つ》いては拙生《せつせい》に特別《とくべつ》な實例《じつれい》がある。拙生《せつせい》は森《もり》の奧《おく》で野豚《のぶた》の牝牡《めすをす》を見《み》つけた。牝《めす》は牡《をす》の直《す》ぐ後《あと》に跟《つ》いて走《はし》つて行《ゆ》く。拙生《せつせい》の彈丸《たま》は外《そ》れたけれど、唯《たゞ》前方《まへ》の奴《やつ》が逃去《にげさ》つたばかりで、牝《めす》は地《ち》から生《は》えたやうに、凝《ぢ》つとして立《た》つてゐる。事《こと》の次第《しだい》を調《しら》べて見《み》ると、後《あと》の奴《やつ》は年寄《としより》で盲目《めくら》で、引《ひ》いて步《ある》いて貰《もら》ふ爲《た》めに息子《むすこ》の尻尾《しつぽ》に促《つかま》つてゐたのである。拙生《せつせい》の丸《たま》は二|疋《ひき》の間《あひだ》を通貫《とほりぬ》け、盲豚《めくらぶた》が啣《くは》へてゐた其《その》導《みちび》きの綱《つな》を絕《た》ち切《き》つて了《しま》つた。そして案内者《あんないしや》が一|向《かう》引《ひ》いてくれぬものだから、彼女《かのぢよ》は當然《たうぜん》默《だま》つて立止《たちとま》つてゐた。そこで拙生《せつせい》は千切《ちぎ》れた豚《ぶた》の尻尾《しつぽ》を把《と》り、年寄《としより》の豚《ぶた》を家《うち》まで引《ひ》いて歸《かへ》つた。拙生《せつせい》に於《おい》ても何《なん》の面倒《めんだう》なく、豚《ぶた》の方《はう》でも素《もと》より盲目《めくら》の事《こと》であるから拒《こば》みもせず恐《おそ》れもせず。 野豚《のぶた》も恐《おそ》ろしいが、尙《な》ほ猛惡《まうあく》で危險《きけん》なのは猪《ゐのしゝ》である。其《その》猪《ゐのしゝ》の一|疋《ぴき》に或日《あるひ》拙生《せつせい》は運惡《うんわる》く森《もり》の中《なか》で行當《ゆきあた》つた。攻守《こうしゆ》共《とも》に武具《えもの》としては寸鐵《すんてつ》をも帶《お》びてゐない。狂《くる》へる動物《どうぶつ》が拙生《せつせい》に橫打擊《よこなぐり》を喫《くら》はせようと狙《ねら》つた刹那《せつな》、拙生《せつせい》は樫《かし》の木《き》の後《うしろ》に姿《すがた》を匿《かく》した。すると先生《せんせい》外《はづ》しを喫《く》つて、餘勢《よせい》直《たゞ》ちに止《とゞま》り難《がた》く、樫《かし》の幹《みき》に牙《きば》を突通《つきとほ》し、打擊《だげき》を繰返《くりかへ》す事《こと》も叶《かな》はず退《しりぞ》く事《こと》もならず、唯《たゞ》地團太《ぢだんだ》を踏《ふ》むでゐた。『占《し》めた〳〵、拙生《せつせい》にも量見《りやうけん》があるぞ!』と拙生《せつせい》は矢庭《やには》に石《いし》を拾《ひろ》つて、何《ど》んな事《こと》があつても逃《に》げられぬやう、拙生《せつせい》が近《ちか》くの村《むら》から戾《もど》る迄《まで》待《ま》つてゐるやうに、敵《てき》の牙《きば》を折釘《をりくぎ》のやうに打曲《うちま》げた。それから拙生《せつせい》は悠然《いうぜん》と村《むら》に歸《かへ》り、繩《なは》と車《くるま》を借《か》りて引返《ひつかへ》し、美事《みごと》先生《せんせい》を生捕《いけどり》にして家《うち》に戾《もど》つた。

雄鹿《をじか》と櫻《さくら》の木《き》の話《はなし》

諸君《しよくん》は獵師《れふし》の守《まもり》本尊《ほんぞん》セント・ハバートと森《もり》の中《なか》で彼《かれ》に現《あら》はれたる角《つの》と角《つの》の間《あひだ》に十字架《じふじか》を立《た》てた雄鹿《をじか》の物語《ものがたり》を定《さだ》めて御承知《ごしようち》であらう。それは兎《と》に角《かく》拙生《せつせい》は自《みづか》ら目擊《もくげき》した珍話《ちんわ》を紹介《せうかい》致《いた》さう。或日《あるひ》悉《ことごと》く彈丸《たま》を使盡《つかひつく》した揚句《あげく》に、はからずも拙生《せつせい》の面前《めんぜん》に立派《りつぱ》な雄鹿《をじか》が現《あら》はれた。恰《あたか》も拙生《せつせい》の彈丸《たま》袋《ぶくろ》を取調《とりしら》べて其《その》無一物《むいつぶつ》を承知《しようち》してゐるやうに、安心《あんしん》して拙生《せつせい》を打目戍《うちまも》つてゐる。拙生《せつせい》は直《たゞ》ちに火藥《くわやく》を込《こ》め、泥棒《どろぼう》を捕《つかま》へて繩《なは》を綯《な》ふやうに、急《いそ》いで櫻坊《さくらんばう》を捥《も》ぎ取《と》り、一|掴《つか》みを丸《たま》に代《か》へた。さて狙《ねら》ひ定《さだ》めて打放《うちはな》すと、其《それ》が鹿《しか》の額《ひたひ》、角《つの》と角《つの》との間《あひだ》に命中《めいちう》し、彼《かれ》は度膽《どぎも》を拔《ぬ》かれて蹣跚《よろめ》いたが、其儘《そのまゝ》疾風《しつぷう》のやうに走去《はしりさ》つた。一二|年《ねん》の後《のち》拙生《せつせい》は其《その》森《もり》で狩《かり》をしてゐると、角《つの》と角《つの》の間《あひだ》に十|尺《しやく》以上《いじやう》の櫻《さくら》の木《き》の生《は》えた立派《りつぱ》な雄鹿《をじか》に出會《であ》つた。拙生《せつせい》は忽《たちま》ち先年《せんねん》の冒險《ばうけん》を想起《おもひおこ》し、これなん先《さき》に取逃《とりに》がしたる我《わが》獲物《えもの》なれ、此處《こゝ》で會《あ》つたが百年目《ひやくねんめ》、と唯《たゞ》一|發《ぱつ》で打倒《うちたふ》し、一|擧《きよ》して腰肉《にく》と櫻漿《チエリーソース》に有付《ありつ》いた。木《き》は能《よ》く繁茂《はんも》して、櫻坊《さくらんばう》が鈴實《すゞなり》になつてゐた。そして世《よ》の常《つね》の木《こ》の實《み》よりも遙《はる》かに味《あぢ》が佳《よ》かつた。

熊《くま》と狼《おほかみ》の話《はなし》

日《ひ》の光《ひかり》と拙生《せつせい》の火藥《くわやく》が、ポーランドの森《もり》の中《なか》で盡《つ》きて了《しま》つた。拙生《せつせい》は家路《いへぢ》に急《いそ》ぐ途《みち》すがら、恐《おそ》ろしい熊《くま》に跟《つ》けられた。彼《かれ》は疾走《ひたはし》つて、大口《おほぐち》を開《あ》いて、今《いま》にも拙生《せつせい》に躍《をど》り蒐《かゝ》らうとする。ポッケットの中《なか》を隈《くま》なく探《さが》して見《み》たが、素《もと》より火藥《くわやく》も彈丸《たま》もない。唯《たゞ》大切《たいせつ》の火打石《ひうちいし》が二個《ふたつ》あるばかり。進退《しんたい》谷《きはま》つて拙生《せつせい》は其《その》一個《ひとつ》を力委《ちからまか》せに怪物《くわいぶつ》の口《くち》に投込《なげこ》むと、其《それ》が喉《のど》に下《お》りた。苦《くる》しかつたと見《み》えて彼《かれ》は一寸《ちよいと》橫《よこ》を向《む》いたから、此《この》機《き》を利用《りよう》して拙生《せつせい》は第《だい》二の火打石《ひうちいし》を再《ふたゝ》び猛獸《まうじう》の口《くち》に投《とう》じたが、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》き大成功《だいせいこう》であつた。第《だい》二の火打石《ひうちいし》は飛込《とびこ》みさま、第《だい》一の奴《やつ》に胃袋《ゐぶくろ》の中《なか》で命中《めいちう》し、直《たゞ》ちに火《ひ》を發《はつ》して、熊《くま》は即座《そくざ》に破裂《はれつ》して了《しま》つた。斯《か》くて事《こと》もなく難《なん》を免《まぬか》れたが、いや、思出《おもひだ》しても慄然《ぞつと》とする。拙生《せつせい》は再《ふたゝ》び無手《むて》で熊《くま》と戰《たゝか》ふ勇氣《ゆうき》はない。 何《ど》うも何《なに》かの因緣《いんねん》と見《み》える猛惡《まうあく》凶暴《きようぼう》の動物《けだもの》は恰《あた》かも本能《ほんのう》によつて其《それ》を承知《しようち》してゐるやうに、拙生《せつせい》が武器《えもの》を持《も》たぬ時《とき》に限《かぎ》つて襲《おそ》つて來《く》る。此《この》傳《でん》で或日《あるひ》拙生《せつせい》は見《み》るから獰惡《どうあく》な相《さう》をした狼《おほかみ》に襲《おそ》はれた。餘《あま》り急《きふ》で既《すで》に餘《あま》り近《ちか》く來《き》てゐるから拙生《せつせい》は唯《たゞ》機械的《きかいてき》本能《ほんのう》に從《したが》ひ、拙生《せつせい》の拳《こぶし》を相手《あいて》の裂《さ》けた口《くち》に突込《つきこ》む外《ほか》道《みち》がなかつた。安全《あんぜん》の爲《た》め拙生《せつせい》は無暗《むやみ》と突込《つきこ》むで、竟《つひ》に拙生《せつせい》の腕《うで》が狼《おほかみ》の肩《かた》の邊《あたり》まで入《はい》つた。しかし如何《いか》にして狼《おほかみ》から離《はな》れようか?斯《か》う間《ま》の拔《ぬ》けた姿勢《しせい》をして、何時《いつ》までも狼《おほかみ》と顏《かほ》を見交《みかは》してゐるのは甚《はなは》だ不愉快《ふゆくわい》でならなかつた。さりとて若《も》し腕《うで》を引拔《ひつこぬ》けば彼《かれ》は憤怒《ふんぬ》舊《きう》に倍《ばい》して飛蒐《とびかゝ》つて來《く》るだらう。是《これ》は其《その》凄《すご》い眼《まなこ》に明白《あきらか》に讀《よ》まれる。短言《たんげん》すれば拙生《せつせい》は狼《おほかみ》の尻尾《しつぽ》を捉《とら》へ、靴下《くつした》を脫《ぬ》ぐやうに、力委《ちからまか》せに裏返《うらがへ》しにして、漸《やうや》く猛獸《まうじう》と緣《えん》を切《き》り、地面《ぢめん》に叩《たゝ》き付《つ》けて、其儘《そのまゝ》歸《かへ》つて來《き》た。

男爵《だんしやく》の駿馬《しゆんめ》の話《はなし》

所《ところ》はリスアニヤに於《お》ける伯爵《はくしやく》ブルゾボスキイの別莊《べつさう》。拙生《せつせい》は應接間《おうせつま》で貴婦人《きふじん》連《れん》と茶《ちや》を飮《の》むでゐた。紳士《しんし》連《れん》は養馬所《やうばじよ》から來《き》たばかりの良種《りやうしゆ》の若馬《わかうま》を見《み》に下《お》りて行《い》つた。すると突然《とつぜん》あれよ〳〵と喧《けたゝま》しい聲《こゑ》が聞《きこ》えた。拙生《せつせい》は階段《かいだん》を驅下《かけお》りて出《で》て見《み》ると、馬《うま》は荒狂《あれくる》つて、人《ひと》を乗《の》せる所《どころ》か、寄《よ》せつけさうにもない。勇膽《ゆうたん》の騎手《きしゆ》まで血《ち》の氣《け》を失《うしな》つて、手《て》を出《だ》せずにゐる。失望《しつばう》は總《すべ》ての人《ひと》の顏色《がんしよく》に讀《よ》まれた。其時《そのとき》拙生《せつせい》少《すこ》しも騷《さわ》がず、飜然《ひらりと》駻馬《かんば》に跨《またが》つて、先《ま》づ其《その》荒膽《あらぎも》を挫《ひし》ぎ、拙生《せつせい》練逹《れんたつ》の曲乗《きょくのり》を試《こゝろ》みながら、さしもの氣性者《きしやうもの》を溫和《をんわ》從順《じうじゆん》に慣《な》らし込《こ》むだ。尙《な》ほ貴婦人《きふじん》連《れん》に合點《がてん》行《ゆ》かせ、無益《むえき》の恐怖《おそれ》を一|掃《さう》するやうに、拙生《せつせい》は開放《あけはな》つた食堂《しよくだう》の窓《まど》から、一|鞭《むち》加《くは》へて室内《しつない》に乗込《のりこ》み、其中《そのなか》を何遍《なんべん》となく或《あるひ》は並足《なみあし》或《あるひ》は駈足《かけあし》或《あるひ》は高足《たかあし》で乗廻《のりまは》し、最後《さいご》に食卓《しよくたく》の上《うへ》に乗上《のりあが》り、一|間《けん》と二|間《けん》の長方形《ちやうはうけい》の上《うへ》で、今迄《いままで》の曲藝《きよくげい》を更《さら》に小規模《せうきぼ》に繰返《くりか》へさせた。さあ、貴婦人《きふじん》連《れん》がやんやと喝采《かつさい》するのしないのつて!馬《うま》は眞《まこと》に巧者《こうしや》なもので、コップ一つ覆《くつが》へさなかつた。是《これ》が爲《た》めに拙生《せつせい》の聲價《せいか》頓《とみ》に上騰《じやうたう》し、殊《こと》に伯爵《はくしやく》は驚嘆《きやうたん》して、常例《いつも》の鄭重《ていちよう》な態度《たいど》で、此《この》若《わか》い馬《うま》を貴下《きか》に贈呈《ぞうてい》する、何卒《なにとぞ》御笑納《ごせうなふ》あつて、近々《きん〳〵》發足《はつそく》す可きミウニッヒ伯《はく》の率《ひき》ゐるトルコ遠征軍《ゑんせいぐん》に投《とう》じ、願《ねがは》くは撼天《かんてん》動地《どうち》の功名《こうみやう》手柄《てがら》を立《た》て給《たま》へ、と强《た》つての懇情《こんじやう》。そこで拙生《せつせい》は一|隊《たい》の騎兵《きへい》を從《したが》へ、幾度《いくたび》か遠征《ゑんせい》に上《のぼ》り、兵《へい》を操《あやつ》る事《こと》縦橫《じうわう》無礙《むげ》、人《ひと》を殺《ころ》す事《こと》草《くさ》の如《ごと》く、遂《と》げたる勲功《くんこう》は當然《たうぜん》拙生《せつせい》の計算《けいさん》に入《い》る可《べ》きものであるが、勇敢《ゆうかん》なる部下《ぶか》の努力《どりよく》も亦《また》决《けつ》して閑却《かんきやく》すべからざるものと信《しん》ずる。殊《こと》に拙生《せつせい》が先頭《せんとう》に立《た》つて、土耳古《とるこ》軍《ぐん》をオクザコーに追込《おひこ》むだ時《とき》の如《ごと》きは、いやはや顏《かほ》の溫《ほて》るやうな激戰《げきせん》であつた。 拙生《せつせい》のリスアニアンは駿馬《しゆんめ》の事《こと》であるから、追擊《つゐげき》に際《さい》しては拙生《せつせい》が何時《いつ》も先登《せんとう》である。其日《そのひ》も然《さ》うで、敵《てき》が後門《うしろもん》から逃《に》げるのを見《み》て、拙生《せつせい》は部下《ぶか》を集《あつ》める爲《た》めに、市場《いちば》に止《とゞま》るのを策《さく》の得《え》たものと思《おも》つた。そこで拙生《せつせい》は止《とゞま》つたが、市場《いちば》には騎兵《きへい》の影《かげ》も見《み》えぬ。彼等《かれら》は他《た》の町《まち》を走《はし》つてゐるのであらうか?何《なに》か事變《じへん》が起《おこ》つたのか?兎《と》に角《かく》遠《とほ》くは離《はな》れてゐまい、その中《うち》に拙生《せつせい》の許《もと》に追着《おひつ》くだらう、と思《おも》ひながら、拙生《せつせい》は喘《あへ》ぐリスアニアンを市場《いちば》の泉《いづみ》に水《みづ》のませた。彼《かれ》は法外《はふぐわい》に飮《の》む、泉《いづみ》を飮干《のみほ》さねば止《や》まぬといふ勢《いきほひ》で飮《の》む。しかし最早《もはや》部下《ぶか》の者《もの》が見《み》えさうなものと振返《ふりかへ》つた時《とき》には其《それ》も道理《だうり》だと思《おも》つた。拙生《せつせい》の馬《うま》の胴《どう》から後方《うしろ》―即《すなは》ち尻《しり》と後脚《あとあし》が、恰《あたか》も銳利《えいり》なる刄物《はもの》で切取《きりと》られたやうに紛失《ふんしつ》してゐる。飮《の》むだ水《みづ》は直《す》ぐに後方《うしろ》へ拔《ぬ》ける。是《これ》では何程《いくら》飮《の》むでも身《み》の養《やしな》ひにならぬ。何《ど》うして此樣《こん》な事《こと》になつたかは、彼《かれ》を伴《ともな》つて市《し》の正門《せいもん》に戾《もど》る迄《まで》は全《まつた》く五|里《り》霧中《むちう》であつた。此處《こゝ》で拙生《せつせい》は思當《おもひあた》つた―先《さき》に逃《に》げる敵《てき》を追《お》ひながら無暗《むやみ》と此《この》門《もん》に突入《とつにふ》した時《とき》、敵《てき》は拙生《せつせい》の知《し》らぬ間《ま》に扉《とびら》を下《おろ》したものと見《み》える。其《その》扉《とびら》といふのは、底《そこ》に大釘《おほくぎ》が列《れつ》を爲《な》して植《う》ゑてあつて、萬《まん》一の時《とき》には上《うへ》から下《おろ》して敵《てき》の侵入《しんにふ》を防《ふせ》ぐ仕掛《しかけ》になつてゐる。彼《あ》の際《さい》敵《てき》が拙生《せつせい》を入《い》れまいとして急《きふ》に下《おろ》した刹那《せつな》、馬《うま》の臀部《でんぶ》を切去《きりさ》つたので、現《げん》に門外《もんそと》には拙生《せつせい》の愛馬《あいば》の胴《どう》から下《した》が、ピクリ〳〵してゐた。拙生《せつせい》は早速《さつそく》獸醫《じうい》を呼《よ》むで、未《ま》だ溫《あたゝか》い中《うち》に兩方《りやうはう》を繼合《つぎあは》せて貰《もら》ひ、纔《わづか》に償《つぐな》ひ難《がた》い損失《そんしつ》を免《まぬか》れた。彼《かれ》は手近《てぢか》にあつた桂《かつら》の木《き》の小枝《こえだ》と新芽《しんめ》で繼目《つぎめ》を縫《ぬ》つてくれた。傷《きず》は間《ま》もなく療《なほ》つたが、同時《どうじ》に桂《かつら》の小枝《こえだ》が馬《うま》の身體《からだ》に根《ね》を張《は》り、枝《えだ》を伸《の》ばし、追々《おひ〳〵》葉《は》が繁《しげ》り花《はな》が咲《さ》き、お蔭《かげ》を以《もつ》て拙生《せつせい》は其《その》後《のち》の遠征《ゑんせい》は暑《あつ》さ知《し》らずであつた。

トルコ豆《まめ》と月《つき》の話《はなし》

拙生《せつせい》と雖《いへど》も連戰《れんせん》連勝《れんしよう》といふ譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。或時《あるとき》は衆寡《しうくわ》敵《てき》せず生擒《せいきん》の憂目《うきめ》に遭《あ》ひ、殊《こと》に不遇《ふぐう》な事《こと》には奴隷《どれい》に賣《う》られた。尤《もつと》も捕虜《ほりよ》の賣買《ばい〳〵》はトルコの習慣《しふくわん》である。(男爵《だんしやく》は後《のち》に皇帝《サルタン》の寵愛《ちようあい》を被《かうむ》つた)此《この》屈辱《くつじよく》の狀態《じやうたい》に於《おい》て、拙生《せつせい》每日《まいにち》の勞役《らうえき》は、身體《からだ》に骨《ほね》の折《を》れる事《こと》でなく、寧《むし》ろ單調《たんてう》退屈《たいくつ》の仕事《しごと》であつた。其《それ》は每朝《まいあさ》皇帝《サルタン》の蜜蜂《みつばち》を牧場《まきば》に追《お》ひ、一|日《にち》見守《もり》をして、日《ひ》の暮《く》れる迄《まで》に再《ふたゝ》び箱巢《はこす》に追戾《おひもど》す事《こと》であつた。或《ある》夕暮《ゆふぐれ》、拙生《せつせい》は蜜蜂《みつばち》を一|疋《ぴき》見失《みうしな》つたが、氣《き》がつけば二|疋《ひき》の熊《くま》が蜜《みつ》を取《と》る爲《た》めに其蜂《そのはち》を潰《つぶ》さうとしてゐる。拙生《せつせい》は銀《ぎん》の手斧《てをの》の外《ほか》に何《なに》も武器《えもの》を持《も》たなかつた。此《この》銀《ぎん》の手斧《てをの》は皇帝《サルタン》の庭師《にはし》又《また》は農夫《のうふ》の表章《しるし》なので。拙生《せつせい》は熊《くま》を目蒐《めが》けて件《くだん》の手斧《てをの》を投《な》げた。唯《たゞ》追剝《おひはぎ》を追拂《おつぱら》つて、蜂《はち》さへ助《たす》ければ可《い》いといふ思惑《おもはく》だつたので。が、拙生《せつせい》の腕《うで》の運《うん》の惡《わる》い振《ふ》り加減《かげん》で、斧《をの》は飛《と》むで止《とゞま》らず、上《うへ》へ上《うへ》へと昇《のぼ》つて行《い》つて、竟《つひ》には月《つき》に逹《たつ》した。さあ奈何《どう》して取戾《とりもど》したものか?と其處《そこ》で拙生《せつせい》は肝膽《かんたん》を碎《くだ》いた。斯《か》ういふ事《こと》が胸《むね》に浮《うか》むだ――トルコ豆《まね》といふ奴《やつ》は大層《たいそう》生長《のび》が早《はや》いのみならず、驚《おどろ》く可《べ》き高《たか》さに逹《たす》するといふ。拙生《せつせい》は時《とき》を移《うつ》さず一|本《ぽん》のトルコ豆《まめ》を植《う》ゑた。其《それ》が生長《せいちやう》してから拙生《せつせい》は其《その》梢《こずゑ》を三|日月《かづき》の角《つの》に結付《むすびつ》けた。斯《か》う仕掛《しかけ》が出來《でき》た上《うへ》は、殘《のこ》る所《ところ》は月《つき》まで登《のぼ》つて行《ゆ》くばかりである。そして是《これ》も見事《みごと》に成功《せいこう》した。月《つき》の世界《せかい》は何《なに》も彼《か》も銀色《ぎんいろ》で光《ひか》つてゐるから、同《おな》じ色《いろ》の手斧《てをの》を探《さが》すのはナカ〳〵小面倒《こめんだう》の仕事《しごと》であつた。が、しかし拙生《せつせい》は苦心《くしん》の甲斐《かひ》あつて、竟《つひ》に籾殻《もみがら》や藁屑《わらくづ》の積《つ》むである所《ところ》で大切《たいせつ》の手斧《てをの》を見付《みつ》けた。さて今度《こんど》は月《つき》の世界《せかい》から人間《にんげん》の世界《せかい》へ歸《かへ》るのである。けれど驚《おどろ》いたのは、太陽《たいやう》の光《ひかり》が既《すで》に拙生《せつせい》の豆《まめ》を枯《か》らした事《こと》で、最早《もはや》全《まつた》く拙生《せつせい》を下《おろ》す用《よう》に堪《た》へない。そこで拙生《せつせい》は働《はたら》き始《はじ》め、例《れい》の藁屑《わらくづ》を拾《ひろ》つて出來《でき》る丈《だ》け丈夫《ぢやうぶ》な出來《でき》る丈《だ》け長《なが》い繩《なは》を綯《な》つた。之《これ》を月《つき》の角《つの》に結《むす》び付け、追々《おひ〳〵》下《した》の方《はう》へ辷《すべ》り下《お》りる。拙生《せつせい》は左《ひだり》の手《て》で聢《しか》と繩《なは》を捉《つかま》へ、右《みぎ》の手《て》に手斧《てをの》を持《も》ち、繩《なは》の不用《ふよう》になつた部分《ぶぶん》を切《き》つて下《した》に繋《つな》ぐ。即《すなは》ち一|里《り》降《お》りれば、上《うへ》の方《はう》の一|里《り》は切取《きりと》つて足《あし》の下《した》に繋《つな》ぐといふ安排《あんばい》で、どうやらかうやら大分《だいぶ》下《した》の方《はう》まで來《き》たが、いくら同《おな》じ事《こと》を繰返《くりかへ》しても、何《なに》しろ距離《きより》が距離《きより》だから、容易《ようい》に皇帝《サルタン》の畑《はたけ》へ着《つ》かない。もう五六|里《り》といふ所《ところ》で、繩《なは》がフツリと切《き》れ、拙生《せつせい》は目《め》の廻《まは》るやうな速度《はやさ》で地下《ちか》に落《お》ちて氣絕《きぜつ》した。此處《こゝ》で地下《ちか》に落《お》ちたといふ言葉《ことば》を味《あぢは》つて貰《もら》ひたい。普通《ふつう》なら地上《ちじやう》に落《お》ちたと書《か》くのだが、其《それ》では事實《じじつ》を傳《つた》へ兼《か》ねる。といふのは何《なに》がさて、五六|里《り》上《うへ》から落《お》ちたのだから、身體《からだ》の重味《おもみ》と落《お》ちた勢《いきほひ》で、少《すくな》くとも深《ふか》さ九|尋《ひろ》ばかりの穴《あな》が明《あ》いた。その穴《あな》の底《そこ》で拙生《せつせい》は生氣《しやうき》に返《かへ》つたのであるが、如何《どう》して這上《はひのぼ》つて可《い》いか少時《しばらく》は勘辨《かんべん》に落《お》ちなかつた。しかし拙生《せつせい》は苦《くる》し紛《まぎ》れに爪《つめ》を用《もち》ゐて先《ま》づ坂《さか》を作《つく》り、次《つ》いで段々《だん〳〵》を拵《こしら》へ、實《じつ》に千辛《せんしん》萬苦《ばんく》の後《のち》に、漸《やうや》く這上《はひあが》つて再《ふたゝ》び此《この》世《よ》の光《ひかり》に觸《ふ》れた時《とき》は、まあその嬉《うれ》しかつた事《こと》といつたら!(男爵《だんしやく》の爪《つめ》は當時《たうじ》四十|年《ねん》も切《き》らずに置《お》いた末《すゑ》で充分《じうぶん》伸《の》びてゐた。尤《もつと》も斯《か》ういふ事《こと》があらうと豫期《よき》して然《さ》う伸《の》ばした譯《わけ》でもないといふ。)

氷《こほ》つた音樂《おんがく》の話《はなし》